ノーマライゼーションとインクルーシブの違いとは?日本のインクルーシブ教育の課題

ノーマライゼーションとインクルーシブの違いとは?日本のインクルーシブ教育の課題

障害者(児)を対象とした施設や教育現場などで、「ノーマライゼーション」や「インクルーシブ」という言葉がよく使われています。しかし、福祉や教育の専門家でないとなかなか意味を理解できません。

そこでこの記事では、ノーマライゼーションとインクルーシブという言葉の違いや、日本社会におけるインクルーシブ教育の課題についてわかりやすく説明していきます。

ノーマライゼーションとインクルーシブの違い

現在、障害福祉とその関連分野で数多くの福祉用語が使われています。本題に入る前に代表的な福祉用語を挙げてみましょう。

バリアフリー
(barrier free)
社会生活を送るうえで障害となるものを取り除くこと
ユニバーサルデザイン
(universal design)
だれもが利用しやすい製品や環境であるための設計(デザイン)
ダイバーシティ
(diversity)
人種や国籍、宗教、性別、年齢などを問わない「多様性」
ノーマライゼーション
(normalization)
標準化、常態化。「特異な状態が当たり前の状態になること」といった意味
インクルーシブ
(inclusive)
包括的。インクルージョン(包括、抱合)が名詞でインクルーシブは形容詞

「バリアフリー」や「ユニバーサルデザイン」は、一般の人にとっても身近な言葉になっています。「ダイバーシティ」も近年は企業においても国籍や年齢などを問わず雇用する「人材と働き方の多様化」という意味で重視されています。

この中で分かりにくいのが「ノーマライゼーション」と「インクルーシブ」です。

ノーマライゼーションは 「標準化」という意味の通り、障害の有無にかかわらず「人間として当然の権利を普通に享受できる社会を目指す」という考えで、ノーマライゼーションの理念は福祉関連だけでなく、子どもの教育現場でも言葉や文化が違う国際交流の場でも取り入れられています。

一方のインクルーシブは主に教育の現場で使われています。「インクルーシブ教育」は「障害のある子も包み込む教育」といった意味になります。

※ノーマライゼーションについて詳しくは以下の記事にて解説しています。

障害者の差別や偏見をなくすノーマライゼーションという考え方


ノーマライゼーションとインクルーシブの理念

それではノーマライゼーションとインクルーシブについてさらに詳しく見ていきましょう。

ノーマライゼーションとは?

ノーマライゼーションは国連でも議論された考え方で、日本においては厚生労働省が公表する資料などで以下の一文がたびたび登場します。

障害のある人が障害のない人と同等に生活し、共にいきいきと活動できる社会を目指す

【引用】厚生労働省 障害者の自立と社会参加を目指して

もともとノーマライゼーションは、「施設に隔離された知的障害者にも社会生活が普通にできる環境を与えるべき」という考え方が基本になっており、ノーマライゼーションという言葉は「Normal(ノーマル)」「nize(ナイズ)」「zation(ゼーション)」を合わせた造語です。

このように、ノーマライゼーションとは「障害の有無に関係なく人間として当たり前の権利を普通に享受できる社会システム」という障害者目線に立った理念ということができます。

インクルーシブとは?

インクルーシブの対義語は「エクスクルージョン(exclusion)」で「排除」という意味。つまり、インクルーシブは「排除しない」の意味と言い換えることができます。

障害のある子どもが通常学級で分け隔てない学校生活を送れるようにしようという試みで、「社会の一員として普通の学校で普通に教育を受けられるようにする」という教育システムです。

ところが、日本のインクルーシブ教育には大きな問題点があります。

日本のインクルーシブ教育にある問題

まず、日本におけるインクルーシブ教育について、文部科学省の考え方を見てみましょう。

  1. 障害者(児)と障害のない者が共に学ぶ仕組みである
  2. 障害者(児)が教育制度から排除されないこと
  3. 主に生活している地域で普通の教育機会が与えられること
  4. 「合理的配慮」が提供されていること
  5. 学校で障害者(児)と障害のない者が交流できる機会を増やしていくこと
  6. 共に学ぶことを追求しつつ特別支援学級、特別支援学校といった場を用意する必要がある

【参考】文部科学省 共生社会の形成に向けて

これを見る限り、ノーマライゼーションの観点では何ら問題ないように思えます。しかし、インクルーシブ教育の視点で見ると、必ずしも「一員として含む」にはなっていません。

例えば、1と2においては「共に学ぶ」「排除されない」としながら、5と6では「交流できる機会」「特別支援学級等を用意する必要がある」としています。

つまり、障害児(生徒)を完全にクラスの一員として包括するのではなく、特別支援学級などを設置して分離(隔離)教育を行うことを前提とした考え方になっているのです。

「包括教育」と「統合環境」はどちらも機能すべき

このインクルーシブ教育の問題は、日本に限った話ではありません。世界的に見ても根深い問題、そして障害者福祉におけるジレンマとして議論されています。

インクルーシブ(包括)という言葉は、インテグレーション(統合)が語源です。紛らわしい言葉ですが、インクルーシブが「全てを包括するシステム」ならインテグレーションは「点在するシステムを統合する仕組み」という意味です。

障害者の教育においては、「包括教育」「統合教育」という概念で分けられており、簡単に言えば「特別支援学校に通いながら定期的に普通学校に行って交流を図る」のが統合教育です。

では、包括教育と統合教育のどちらを推進するのが理想的かというと、これは非常に難しい問題です。

仮に包括教育が推進されて、障害のある子がすべて普通学級に就学することになったとします。

今は法律で学校にも合理的配慮が義務づけられていますが、児童40人に教師が1人という教室編制では、障害児の教育ニーズに配慮しながらの指導は難しいというのが現状です。

ひと声かけてあげれば授業に集中できる子も、教師の目が行き届かないため騒がしくしている子もいます。知的障害のある子なら学校生活が苦痛になるかもしれません。

その結果、クラスに適応できずに不登校になったり、うつ状態になるなどの二次障害の問題も起こり得ます。

では、現在行われている統合教育のままでよいのでしょうか?

それでは健常児と障害児の間にある障壁は解消されませんし、ノーマライゼーションの理念に逆行してしまいます。

インクルーシブ教育については、専門家や福祉に関わる人、そして当事者の間で意見が分かれていますが、今のところ「普通学校そのものの仕組みを変えるべき」という声が高まっているといった状況です。

「包括教育を目指しつつ、統合教育の中でノーマライゼーションを徐々に浸透させていく」。それが現状では最も確実なインクルーシブ教育を実現する方法なのかもしれません。

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